修羅しゅらら日記 '96/6





6月28日(金)
 な、なんなんだ! ユードラでメールをチェックしたところ、245件! おかげでユードラの調子が悪く、ついに通信不能になってしまいました。原因は不明です。メールを読むことさえ、できなくなりました。なぜだ!
 明日は棋王戦の第二局が東京で行われます。第一局は挑戦者の三浦五段が羽生棋王を相がかりから一方的に破っています。この一戦は羽生棋王としても負けられません。それでも、第一戦において、羽生棋王が一時間以上も持ち時間を余していたことは、気がかりです。どんな将棋でも、持ち時間を目一杯使うのが羽生将棋のはずです。短手数で勝負がつく戦型だけに、仕方がなかったのでしょうか?
 持ち時間と言えば思い出すのは、河口六段の著書に出てくる奨励会での不気味な少年です。プロ棋士同士の対局では、何手かかろうと自玉が詰んでいることがわかれば、通常は投了します。ところがこの少年は、あと三手で詰むことがはっきりしているにもかかわらず、「負けました」とも言わなければ、いっこうに次の手を指しません。王手をかけられ、逃げる場所はひとつしかないというのに、盤面をじっと見つめたまま微動だにしません。
 たまりかねた対戦者は聞いたそうです。「君、何を考えているの?」
 少年はぼそりとつぶやきます。
「だって、このまま時間一杯まで粘っていたら、もしかしたら君が心臓麻痺を起こして、僕の勝ちになるかもしれないだろう」
 う〜む、なんとも恐ろしい執念。でも記事からすると、やっぱり彼はプロにはなれなかったんだろうなぁ。


6月27日(木)
 久々にTさんが夜訪ねてきました。何を考えているのか未だによくわからない人ですが、いま燃えていることは確かです。近頃ようやく天職に巡り合えたようで、今までこんなにまじめに働いたことはなかったと、爽やかな笑みを浮かべながら話します。ただ問題は定収入がないことらしく、日中は土方をしながら、夢に向かって頑張っています。
 まじめに働いたせいか、長いこと忘れていた夢が蘇ったようです。四十歳になるまでには、デビューするぞと、ビールを片手に熱く語っていました。Tさんはかつて、イカ天にも出たことのあるロックバンドのボーカリストです。その際には、中島みゆきのバックを務めているドラム担当の審査員に、「う〜ん、どうでもいいけど、その汚い乳首は隠してもらいたいな」と、音楽にはまったく関係ない批評をもらい、「あいつには音楽のことがわかっていない」と開き直っていました。
 でももしかしたら、近々Tさんがデビューする日も来るかも知れません。それだけのバイタリティーが、このところのTさんには備わっているようです。


6月26日(水)
 仕事の合間に読んでいた結城史郎著「インターネットの死角」を読み終えました。う〜む、やはりあとがきに書かれている次の言葉が、すべてを語っているのではないでしょうか。
「したがって、本書に記載されたことをそのとおり実行して、罪に問われるなど、意に反する結果に至っても、著者及び出版社は責任を負わない。また、著者は法律家、すなわち法律のプロとしての道義的責任も負わない。」
 本書を読み終えたなら、ここに書かれていることを実際にやってみようと思う人だって、きっといるに違いありません。簡単に説明すると、日本で禁止されている賭博をアメリカのラスベガスにホームページを設けることで、堂々と元締をやってしまおうという男の話です。アメリカのサイトで日本語によるホームページを開くことによって、日本からも世界陸上選手権などの賭博に気軽に参加できるようになるわけです。多くの会員を集め、男は一年ほどでうん十億の利益を上げます。
 これはひとつの例にすぎず、男はその他にもインターネットを利用するさまざまなアイデアを捻りだし、それを実行していきます。よく考え付くものです。
 それでもこうしたことは、かなりリアリティがあるように思えます。インターネットがこれだけ普及してくると、世界的な規模でなにかができるわけであり、一国の法律の範囲では取り締まることのできない犯罪(法律的に犯罪として成立するかどうかは別)も、今後増えてくるのではないでしょうか。インターネットという新しいメディアが、社会を確実に変えていくことになるのでしょう。
 インターネットの可能性を具体的に披露した著者のアイデアには、非凡なものを感じました。欲を言えば、会話の部分がいかにも業務連絡のようで味気なく、抵抗があったことは残念です。
 それにしても百億規模の大金が造作もなく動いて行くことには、妙な快感がありましたねえ。一瞬金銭感覚が麻痺することは保証します。


6月25日(火)
 最近頻発していた線路に石をおく犯人が、ついにわかったそうです。こっそりビデオカメラを備え付け、隠し撮りしたところ、見事に一部始終が写っていたということです。なんと犯人は、「カラス」だったのです。
 カラスがなんのためにわざわざ重い石を線路にまで運んでいたのでしょうか。自分より早く我がもの顔で走る電車が気に入らず、止めてやろうと思ったのでしょうか。不思議な話です。なんかこれで童話の一本でも書けそうですね。
 ただカラスが、人間が今まで思っていた以上に頭がいいことは事実のようです。カラスは単に群れをなしているわけではありません。カラスの集団には、きちんとした社会が形成されていることは有名です。カラスの裁判なるものも、あるそうです。
 なにかの本で読んだのですが、ある人がカラスを追い払おうと石を投げたところ、偶然カラスに当たったと思いきや、その日からカラスの報復が始まったそうです。その人の家の周りには一日中カラスが張り付き、様々な情報をカラスからカラスへと伝達していきます。そして、その人が家から出てくると、カラスがどこからともなく集まっては、攻撃してきたのです。くちばしでつつくだけではありません。石をくちばしで挟み、上から落としてくるのです。そのうちには、ヤカンやナベなど道端に落ちているものを拾っては、その人めがけ、空から落としたそうです。これはたまりません。しかもカラスの執念深いことといったら、人間の比ではありません。たまりかねたその人は、家族ごとついに引っ越したということです。
 この話は小説とかではなく、誰かのエッセイにあった話だと思いますから、多分本当のことなのでしょう。ヒッチコックの鳥を思わせるようでもあり、なんとなくユーモラスでもあります。
 カラスといえば、あのUFO番組で有名な矢追純一さんが「カラスの死骸はなぜ見あたらないのか」という本を書いています。そういえば、あれだけ目にするカラスのくせに、その死骸は意外と見た記憶がありません。
 矢追さんはこの本のなかで、カラスほか野生動物の死骸は、自然に消えてなくなるという説を紹介しています。リアリティがさほどあるわけではなく、「トンデモ本」のひとつであることは間違いないのですが、読んでいて楽しい本であることはたしかです。常識にとらわれない柔軟な発想には頭が下がります。


6月24日(月)
 ついに、ロングバケーションが最終回を迎えました。といっても初めから見ていたわけではなく、先月ぐらいから見出したにすぎません。偶然見たこのドラマのなかで、ピアノによるクラシックの名曲が効果的に使われていることに興味を覚え、毎回見るようになりました。
 ですから最初の部分はよくわからないのですが、なかなか脚本が優れていると思いました。役者の個性をうまく引き出しているように感じましたから。久々にせつなさが込み上げてくるようなドラマにめぐりあえたような気がします。
 最終回のドラマのなかで、誰かがディヌ・リパッティの名前を口にしました。懐かしい名前です。あのロマンチックな演奏は、やはり秀逸です。リパッティの弾いたショパンのバラードはいまも時折CDで聞きますが、何度聞いても透明な美しさに酔わされます。彼の最後の演奏となったブザンソン告別演奏会のレコードが欲しくて、昔ずいぶん探し回ったのですが見つけられなかったことを覚えています。彼が白血病で世を去ったのは、三十三歳のときでした。いつのまにかその年齢を自分が越えていることに、不思議な気持ちがします。
 ロングバケーションですが、あのドラマでは音楽が、さまざまな場面を盛り上げていました。クラシックもそうですが、挿入されているバックミュージックが、また素晴らしいものでした。あの「セナのテーマ」のピアノが、特に気に入りました。久々にピアノにふれてみると、おっと意外と簡単じゃないか。Cからはじめれば、よくある手の典型的なコード進行で事足りることに気づき、気分はもうピアニスト。端で聞いていれば、つっかえつっかえのひどい音なんだろうけれど、本人はいたって浮かれて弾いていました。


 そういえば新聞に、福井のホタル祭りでビニールハウスに放してあったおよそ二千匹の蛍が、開場一時間ですべて見物客に捕獲されたと出ていました。ちょっと信じがたいことです。自然のままではなく、人工的に押し込められている蛍を見ることによって、見物人の理性が狂うのでしょうか。いや、これは理性の問題ではかたずづけられないように思われます。
 人は自然のなかに放り出されることによってはじめて、小さな命の存在を知り、畏敬の念を覚えます。それは理性で感じるものではなく、もっと内奥にある自分のなかの何かが感じとるものです。
 小さな命を慈しむ心が沸き上がったなら、その命を無暗に奪おうとするはずはないのですから。たとえば昨日紹介した辰野のほたる祭りでは、松尾峡の暗闇の中を蛍が時折人に向かって飛んできます。静かにゆっくりと舞う蛍を、手のひらでつかまえることはそれほど難しいことではありません。たまに子供たちがつかまえています。でもしばらく手のひらの上で光を放つ蛍を観察すると、皆一様にそのまま蛍を夜空に舞い上がらせています。誰に言われるまでもなく、自然にそうするのです。
 自然のなかには、人知を超えた意志が存在しているように思えてなりません。


6月23日(日)
 ついに決意しました。今日から日記を付けてみようと。動機はいたって不純です。ほぼ同じ頃インターネットをはじめた友人たちのカウントが、ぐんぐん伸びて行くのに対し、なぜか私のカウントはいっこうに伸びないからなんです。これにはなにか原因があるに違いないと日夜考えた揚げ句、毎日更新するものがないからだ、とはたと気づいたのです。
 そういえば友人たちはみな、なにかしらの日記をつけています。そうなるとついつい、毎日チェックしたくなるのが人情というもの。というわけで、私も日記なるものに挑戦してみようと決意した次第です。ゆくゆくはあの津田氏の日記リンクスにも登録してみようと、野望を胸に秘めています。
 まぁそうはいっても、別にプライベートなことを綴るつもりはありません。日常で感じたささいなことや、読んだ本の感想などを交えて、思い付いたままに書いてみようと思っています。

 記念すべき第一日目は、ほたる祭りのことを書くことにしましょう。ちょうど今ほたる祭りから帰ってきたところですから。
 ほたる祭りって知ってますか? 長野県に辰野町という小さな町があります。この町では十数年前から町ぐるみでゲンジボタルを保護しているんです。
 ほたる祭りはその蛍を多くの人に楽しんでもらうために、辰野町がはじめたお祭りです。別に祭りのために蛍を保護したわけではないのでしょうが、思いのほかゲンジボタルの繁殖に成功したおかげで辰野町は日本有数の蛍の里といわれるまでになり、町をあげての最大の年中行事としてほたる祭りは定着しました。
 六月の下旬からほぼ一週間祭りは続くのですが、その蛍を見学に遠方からも多くの人が集まり、華やかな賑わいをみせます。普段は物静かな駅前には露店がずらりと並び、舗道は人で埋め尽くされるのです。
 やがてあたりが暗闇に包まれると、本当の蛍祭りがはじまります。田圃の間に敷かれた細い道をたどっていけば、カエルの鳴き声が四方八方から聞こえてきます。その声が少しづつ遠ざかると、小川に沿って、月明りだけに照らされた真っ暗な道が続きます。そこからほんの少し歩を進めると、思わず叫び声をあげたくなるような幻想的な光景が目の前に現れます。
 艶のある銀色の小さな光が、広大な湿原に無数に点滅を繰り返しているんです。無機質な街の明りとは異なり、その輝きのなかにはあたたかさと切なさが同居しています。小さな命が、精一杯輝こうとしているからでしょうか。単なる美しさを超えた崇高なものを、その一瞬感じるんです。
 今までおしゃべりをしていた人たちが、無数に散らばる蛍のゆらめきを目にしたとたんに言葉を忘れ、ただ蛍に見入ります。静けさのなかで、風にあおられ蛍が一斉に舞い上がるさまは、一度目にしたなら二度と忘れることはないに違いありません。 さだまさしさんが歌で詠んだ「降りしきる雪のような蛍、蛍、蛍」そのままの世界です。わずか10日間の短い時間を、蛍は力の限り輝き、舞います。


 小学生の頃、竹馬の友とともにほたる祭りに出かけたことがあります。まじめな小学生でしたから、もちろん辰野に着いたのは昼間です。どういう祭りなのかと知るよしもなく、ただ露店を見て回ることが楽しそうだったから、出向いたまでのことでした。  それでも「ほたる」と名がつくからには、どこかに蛍がいるに違いないと、私たちは懸命に探しました。しかし残念ながら、ついに発見できぬまま帰途についたのです。家に戻ると落胆する私に向かい、父が言いました。

「蛍は夜見なければ、わからない」


 大学生の頃、まだホームビデオなるものが発明されてなかった時代、私たちは音の収集にこっていました。フォークソング部に属していた私は、自分たちの創った曲を録音する際に、いろんな生の音を入れて体裁を整えようと提案したのです。同じ下宿の友人らとともに、ではちょうど「ほたる祭り」をやっているから蛍の鳴き声を取ろうということに決まり、重い機器を抱え、松本から辰野に向かいました。
 道端に蛍が点滅している姿を見かけると、私たちはあわててマイクを蛍に向けたものです。道行く人が怪訝な眼で私たちを見ます。それでも辛抱強く、マイクをむけじっと決定的瞬間を待ち続けました。そんなことを何回か繰り返すうちに、私たちはようやくひとつの事実に気がつき、愕然となりました。

蛍は鳴かない。


 ほたる祭りのクライマックスの場所に着くまでには、かなりの長い距離をカエルの鳴き声とともに、歩かなければなりません。そのためはじめての人は、相当不安にさらされるようです。いくら目をこらしてみても、蛍の一匹も飛んではいないのですから。多くの人たちが不安な面持ちで歩いていたときのことです。あるカップルの女の子が、連れの男の子をからかうつもりで声をあげました。
「あっ、蛍」と、叫び、田圃を指さしたのです。するとどうでしょうか。カップルの周りはたちまち黒山の人だかりとなり、「どこだ、どこだ」「OOちゃん、蛍ですって、よく見なさい」と、まるで百姓一揆のような大騒ぎとなってしまったではありませんか。
 あまりの騒ぎの大きさに、指さした手を引っ込めることもできず困り果てた女の子は、戸惑いながら声を発した。

「なあんちゃって!」


 う〜む、つい長く書いてしまった。この癖は明日からは直そう。
 ま、要するに今年のほたる祭りは、例年になく蛍がたくさんいます。今からでも間に合う方はぜひ行ってみてはどうでしょうか、ということを言いたかっただけです。
 長々お騒がせしました。


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