第二阪神高速道路 
  


 親父のことを書いてみたい。
 ただ、その事を書く前に、最初に言っておきたい事がある。それ
は、親父が間違いなく僕の親父であり、また僕のベストフレンドで
あった、という事である。

 親父の事ですぐに何を思いだせるかというと、僕が物心ついた頃
から、高校へ通い出すまでの間、毎年大晦日になると必ず神戸市の
"成田神社"というところへ二人で二年参りに出かけた事だ。

 それは、どんなに我々の住む場所が変っても、あるいはまた、た
とえどんなに我々の環境が変っても、変る事なく続いた。

 そして、その二年参りの際、親父が車を走らすコースと、車を運
転しながらの親父のセリフも変る事はなかった。

「今年も終りやな。ほらもうすぐ来年が来よる。そうや。成田さん
に着いたら、もう来年や。新しい年は、お前も頑張らなあかんで。
ほんまに頑張らなあかんで」

 我々の住むところは、実によく変った。尼崎、西宮、大阪、
吹田・・・etc。
 そして環境もよく変った。

 犬を飼っていた時もあったし、広い家に住んでた時もあった。か
と思えば、次の瞬間にはバラックの様な長屋に我々は住んでいた。

 しかし、環境でんなにより変った事といえば母親が突然交替し、
ついでに僕に三歳の弟まで登場した事だ。

 こういうのって、比較的世間にありがちなのかもしれないけれど、
いざ自分の身にふりかかってみると、やっぱり最初は少しとまどっ
た。

 親父もよくやってくれるよ。ていう感じなのだ。
 ただひとつ僕にとって救いだったのは、実は、僕はあんまり最
初の母親が好きでなかったという事だ。

 いや本当は、そういうのって非常におかしい事なのだ。
 母親を好きでない子供がいるだろうか。また、我が子を好きでな
い母親がいるだろうか。たぶんいない。というより、絶対にいない
筈なのである。

 本来のあるべき姿からいえば、例えば、父親と母親が夫婦喧嘩を
しているとしよう。

 そんな時男の子は、メラメラと心の中に炎のように燃えあがる闘
志を持って父親と戦う筈だ。

 しかし、残念ながら僕にはついぞ、そんな気持ちは沸き起こらな
かった。

 母親の、最後の別れの言葉も覚えていないし、たぶん母親は、な
にも言わなかったのだ。
 さっさと家を出ていった筈だ。

 そういえば、心から母親に甘えた記憶も僕にはない。逆に、どこ
の家庭でもよくやる、親子喧嘩みたいなものもした事がないし、感
情的になって母親に酷い言葉を投げつけた覚えもない。

 不思議な母と子。妙に冷めた母と子。

 それは、ずっと僕の心の中にひっかかってはいたが・・・。
 やがて、あっ! そうだったのか。とわかる時がくる。

 それは、何年も後の事になるのだけれど。

 大晦日の夜、親父の走らす車は、どこから出発しても必ず、いつ
のまにか第二阪神高速道路上に乗っており、そのまま正確に神戸市
に到着するのである。

 神戸の市営駐車場から、成田神社への道のりは、結構長い距離が
あった。

 しかし、人ごみは毎年大変なもので、その距離を歩くのに飽きる
事はなかった。
 振り袖姿の若い女性や、羽織袴の男性などで、ぎゅうぎゅう詰め
になる程賑わっていた。

 阪神電車のガードをくぐり、国鉄のガードをくぐり、大外デパー
トを横切り、そしてメトロというキャバレーの横を通過して我々は
神社をめざして歩いた。

 ずらりと神社までの通りを、綿菓子や、たこ焼きや、お好み焼き
の屋台だとか、バッタ商品の露天商の店が立ち並ぶ。

 ちょうど昭和三十年代から四十年代中頃というのは、まさしく日
本経済の著しい高度成長時代で、現在のようにスマートさはないけ
れど、どこかしら猥雑な活気が街中に漂っていた時期である。

 もちろん神戸の街も例外ではなかった。
 革製のベルトから、蝦蟇の油から、本当かどうかはしらないけれ
ど、イタリア直輸入の価値ある女性バックから、ありとあらゆる得
体の知れない物が売られていた。

 親父は、ひとつひとつの店を覗きこんでは「あんまり安ないなあ」
と、ただひやかしの言葉を投げかけた。その後から僕は、「ほんま
や、ほんまや」とばかりに頷くのだ。

 神社でもお賽銭を投げ、ポンポンと拍手を打ち、一つ二つ願い事
を呟き、境内で家への土産に破魔矢と小さな達磨と、僕の大好物の
天津甘栗を買った。

 そうこうして、我々は、毎年新しい年を迎えたのである。

 帰宅車の中で、これも毎年の事なのだけれど、親父は僕に、諭す
ようにこう話しかけるのだ。
「また、新しい年が来よった。お前もまた大人に一歩近づいた訳や。
お前も、いつかは俺のもとから離れていくんや。はよ離れていくん
やで。世界中どこへでも行ったらええ。俺の事は、なーんにも気に
せんでええ。自分で自分の幸福をみつけなあかんのやで」

 そのセリフが親父の口から出る頃には、僕はいつも眠たくなり、
天津甘栗の袋を握りしめたままうとうとしてしまうのである。



 僕が中学三年の時だ。
 最初に二人で二年参りに出かけだしてからもう何回めになるのだ
ろう。

 その大晦日の夜も、十一時を過ぎた頃、親父は僕に声をかけた。
「よしゃ出かけよか」

 その夜は、弟も妹も「自分達も一緒に行きたい」と主張したが、
親父はあっさりとその主張を斥けた。
「あかん。お前らは待っとくんや」

 そこまで言わなくてもいいのに、と僕は思ったけれど、僕もクラ
スメートとかの約束を断ってじっと待機していたのだ。
 親父と二人で成田神社へ行こうと思って。

 その夜も、いつものセリフを親父が僕に語り、車はいつものコー
スを走り、いつもの家への土産と天津甘栗を買い、そして我々の車
は、帰り道を走っていた。

「好きな女の子はおるんか?」
 親父が急に訊いてきた。いつもとは違ったセリフだった。

「うん、まあ」僕は答えた。
「うまい事いっとんのか」
「いや、もうひとつやね」僕は、曖昧に答えた。僕の脳裡には、ク
ラスメートの恭子ちゃんの事が浮かんだ。

 恭子ちゃんとは二学期の期末テスト終了後初めて二人だけでスケ
ートに出かけた。

 僕にとっては生まれて初めてのデートだった。でも、デートはし
たものの、恭子ちゃんが、僕の彼女になってくれるなんて自信はと
ても僕には無かった。でも恭子ちゃんの事を考えるといつもほのか
に甘いものが僕の胸の中に漂った。

 僕はゆっくりと眼を閉じた。このまま、助手席で眠ればなんとな
くいい夢が見られそうだった。が、続けざまに親父が僕に話かけた
ために、その甘いひと時は中断した。

「お前はなあ、あんまり男前でもないし、これといった才能もない
し、うまい事いかんかってそらしゃあーないわな」と言って、親父
はガッハッハと笑った。

 僕は少しムカッとしたが、生まれながらにして気の弱い性格から
か、情けなく僕もハッハァと笑ってしまった。

 それにしても親父のそんな豪快な笑い声を僕は初めて耳にした。
「まぁええ。いっぱい女の子好きになったらええ。そのうち、お前
でもええちゅうのが現れるやろ。もし現れんでも、その時は、その
時や。世の中ちゅうのはみんな旨い事いくもんちゃうからな」

 僕はふと五年前に別れた母親の事を訊いてみようかと思った。
 親父とその話をした事は、今まで一度もなかった。僕自身も正直
言って、母親の事をあんまり思い出した事はなかったのだけれど。

 僕が何か話そうとした時、親父が再び口を開いた。
「とうとうまた新しい年が来よった。お前も今年で中学卒業や。え
えか。俺と一緒に二人だけで二年参りに行くのもこれが最後や」

「ええ! 最後なんか」僕は少し不満だった。一方的に最後だと言
い渡された事に対して。

「ああ最後や。お前もきっと、高校行くようになってみい、彼女と
でも出かける方が楽しいなるんや。そんなもんなんや。いつかまた
逆に俺が足腰立たんようになったら、お前に連れていってもらう時
があるかもしれんけど、とりあえず最後や。お前も中学卒業いうた
ら、もう立派な大人なんや」

 大人か。こんな頼りないのにもう大人か。僕は今度はそう思った。
「それからな。もうひとつ。お前の高校への願書出す前にな、お前
にひとつだけ話とかなあかん事あるんや。そうや最初の男と男とし
ての話や」

 僕はなぜかドキリ!とした。殆ど本能的にだ。どういうわけかそ
んなのわからない。
 自分自身にとって、とても大変な事が起きる。うまく言えないが、
まあ一言で言えば「やばいぞ」
そういう感じだ。

 第二阪神高速道路沿いの"清酒正宗"の看板が見えてきたあたりで、
親父はちょっと僕の眼を見つめた。そして一呼吸おいて再び話始め
た」

「この事はお前にいつか話さなあかんと思っていた。いつかな、い
つかや。その時が来たんや。いつかが来たんや

 お前はな、お前は貰われてきたんや。そうや天からこの俺に貰わ
れてきたんや。わかるかそういうの。お前を産んでくれた母親とか
父親とか、この世にはもうおらんのや。

 お前がこの世に出てきた頃、今とちごうてまだまだぎょうさんの
人が死によった。
 まだまだ落ち着きのない時代やった。

 俺の親友だったお前の父親は、お前がこの世に出てくる前に事故
で死によった。

 もともと体の弱かった母親は、お前をなんとか産んだけど病気で
倒れた。重い病気にかかって入院してしもたんや。いろいろ心労も
あったんやろ。

 医者は、お前が生きてこの世に生まれてきたのも奇跡やゆうてた。
 殆ど身寄りのなかった母親は、お前をある施設に預けようとした
んや。

 それで子供のなかった俺は、何べんも頼みこんでお前を貰たんや。

 きれいな人やった。きれいな人やったで。世界一や。

 母親は無茶苦茶ボロボロ涙を流しながら、『ほんとに幸福にして
やって下さい。この子の好きなように自由に、のびのび生きさせて
下さい』言うて、細い、真っ白な手で俺の手握りしめた。

 それからすぐや。母親が死んだんは。

 お前を俺に渡してホッとしたんか、それとも気が抜けてしもたん
か、どっちか知らんけど。

 俺は、お前の母親の事愛しとった。

 ほんまの事いうたら一緒に暮らしてた時もあったんや。まだ俺が
学生の頃やった。

 せやけどな・・・、うまい事いかんかった。
 今から考えたらなんでそうなってしもうたんかようわからん。

 お前の母親は俺の親友と正式に結婚した。

 俺は、お前の母親を幸福にする事はできんかった。そして俺は、
数年後、別な人と結婚した。

 いろんな事があったんや。今言えることはそれだけや。
 なにが正しゅうて、なにが間違っとるかなんて、誰もわからん。
 俺もわからん。今だにわからん。

 いやひとつ言える事は、俺は大きな人生の闘いに負けた。大きな
悔いを残した。
 その負けを取り返すためにも、お前を育て続けたのかもわからん
のや」

 僕は、勿論なにも答える事はできなかった。

 僕の視線に、闇と灯りが交錯してうまく一つの像を結ばなかった。
「お前もいつかは俺のもとから離れていくんやで。はよ離れていく
んやで。世界中を自由に生きていくんや。もう俺の事なんかなあー
んにも気にせんでええのや。自分の手で自分の幸福つかまなあかん
のやで」

 その夜もやっぱり僕は、天津甘栗の袋を抱えながらじっと眼を閉
じていた。でもいつもの様に本当に眠たかったのではない。神経は
反対に冴えていた。

「ああ、そうだったのか」という、意外にもほっとしたような、あ
るいは今までポッカリあいてた穴これで少しづつ埋まった様な安堵
感と、もの凄い孤独感と疎外感。そういったものが混じり合い、渾
然一体となって、なにがなんだかもう声ひとつ出なくなっていた。

「人間は弱いもんや。なんでか言うと、人間にはいろんな事感じと
る心があるからなんや。

 辛い、苦しい、哀しい、その他にも嫉妬、憎悪、裏切り、とにか
くいっぱいある。喜びを感じる心なんてわずかなもんや。

 そやから人間はこの世で一番弱い生きもんなんや。

 そやけど弱いから言うて、生きる事まであきらめたりしたらあか
ん。弱いから言うて、言い訳にしたらあかん。

 とことん頑張るんやで。そーせなしゃーないねん。負けてもええ。
負けてもええねん」

 親父の言葉はまるで自分自身に語りかけているようでもあった。
 親父はしっかりとハンドルを握りしめ、アクセルを踏む足にぐっ
と力を入れた。

 車はぐんぐん速度を増し、闇の中を突っ走っていった。

 フロントガラス正面には、今伊丹空港から飛び立ったのか、それ
とももうすぐ着陸するのか、ジェット機の真っ赤なテールランプが
闇の中の低い位置を旋回していた。

 僕は何かを伝えようと親父の方を向いた。
 親父はじっと正面を見据えていたが、高速道路に連なる街路灯の
灯りが、うっすらと頬伝う親父の涙を照らしていた。

 僕は結局何も言わず、ラジオのスイッチを押した。いろんな雑音
に混じって海外の放送が入ってきた。

 そのラジオのジョッキーは、「ア・ハッピー・ニュー・イヤー」
と叫んだ。

 僕は再び眼を閉じた。今親父が語った事を整理しながら、とりあ
えず小さな声で呟いてみることにした。
「ア・ハッピー・ニュー・イヤー」と。

 車は、相変わらずもの凄い勢いで第二阪神高速道路を走り続けて
いた。

 とにかく我々にも新しい年はやってきたのだ。

(山田博之)



 上テキストは、第一回長野県文学賞の受賞作です。

 

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