時はゆき、タクトは止まず |
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今年の季節の移ろいは早かった。夏が異様に暑かったせいだろう
さあ、ホールに足を踏み入れてみよう。世界を代表する指揮者と
プレスルームで開演を待つ間、壁越しに聞こえてきた肉声にしば
それは、アナログやデジタルでは再現することのできない生きた
やがて一瞬の静寂が訪れ、ベルが鳴る。サイトウキネンによるオ
ストラヴィンスキーの「道楽者のなりゆき」、それがサイトウ・
見る楽しさ、今回のオペラは舞台芸術の面白さを十分に味あわせ
数年前ロンドンに出かけた際、彼のオペラを見損なっていただけ
これだけのオペラは、本場ヨーロッパに行ってもそうは出会えな
いつ終るともしれない拍手と喝采が、ホールを包んでいた。
静かな語りとともに、「ファミリー・ツリー」が奏でられる。日
家族に寄せる一人の少女の心の奥底が、朗読される。それに併せ
演奏が終わると、小澤征爾のもとへ武満徹と、作詞を手がけた谷
そしてチャイコフスキーへ。今回の音楽祭の柱となる作品だ。
せきばらいが起きる。
一瞬の静止ののち、小澤のタクトが降りおろされる。
その一瞬の音に、演奏家のさまざまな思いが込められる。そうし
聴く側も、そこに雑多な思いを重ねる。自らの過去を思い、回想
指揮者のもと、そうした思いがひとつの高まりへといざなわれ、
サイトウ・キネンに耳を傾けるとき、歳月だけがたしかな足取り
当たり前の話なのかもしれない。一人の人間のちっぽけな想いな
思えばサイトウ・キネン・フェスティバルの初演から今日まで、
日々の生活のなかで、人は新しい何かを得、それと同じ数だけの
一番ほしいものを手に入れることのできなかった悲しみに、打ち
どんなに憎しみを募らせても、過ぎてしまえば美化される。人を
過ぎた歳月、そうして無くしたものの数だけ、人はやさしくなれ
想いを埋めるかのように、音が行く。
流れゆく音のひとつひとつに、人生が、口に出せない言葉が、愛
真剣に悩み抜いた分岐点での選択が、人生をつくってゆく。選択
まるでお祭り騒ぎのような盛り上がりが、第三楽章を包みこむ。
でもそんなことは構わない。いまはただ、躍動感ある音が聴きた
ここの解釈をどうとるかで、曲全体の構成が大きく異なってくる。
今日の気分には、この演奏が妙にしっくりとはまり気持ちがいい。
「何とかなるものさ。人生なんて。」
か。一晩を境に夏から秋へと、季節は一足飛びに変化した。そうし
てすっかり秋めいた九月、サイトウ・キネンが松本に帰ってきた。
この音楽祭も、今年で四回目を迎えようとしている。
演奏家の奏でる音楽と出会うために・・・。
9・6 18:00〜
オペラ「道楽者のなりゆき」
なんという重く甘美な響きだろう。地の底からはいあがるような
バスが、まだ聴衆のいないホールをふるわせている。
し釘付けとなる。悪魔役のポール・プリシュカの発声練習だ。
声である。自分のなかの何かが、彼の声に呼応する。懐かしいもの
と再会したかのように、引き寄せられていく。「魂がふるえる」と
は、こういう瞬間を指すのかもしれない。開演間近の高まりを抑え
るかのように、プリシュカの声が、場内を埋めつくす。
ペラの幕があがった。
キネン・オーケストラの選んだ三度目のオペラである。日本ではほ
とんど上演される機会のない作品だ。
てくれた。原色を配した前衛的な舞台装置と衣装、場面ごと瞬時に
切り替わる舞台造りの巧妙さ。さすがグラハム・ヴィックの手によ
る演出だ。
に、感慨もひとしおだ。この超一流の演出に、一糸乱れぬオーケス
トラがドライな演奏をみせる。
い。この夜、世界最先端の芸術が松本の地に咲いた。
9・7 19:00〜 武満徹「ファミリー・ツリー」& 交響曲第6番「悲愴」
このフェスティバルの主役は、やはりオーケストラだろう。サイ
トウ・キネン・オーケストラならではの重厚さと繊細さを兼ね備え
た音を聴かないうちは、何やら落ち着かない。
本を代表する作曲家である武満徹が、メーターに委託され作ったこ
の作品は、これが日本初演となる。
武満の音楽が、あたかも母親の胎内にいるかのように響いてゆく。
霧がかった桃源郷へ誘われるような錯覚におちいる。
川俊太郎が現れる。それぞれの世界の巨匠が三人並ぶ光景も圧巻だ。
タクトが上段に構えられる。
場内が静まり返る。
ファゴットからうめくような音が、こぼれだした。
音楽が、時の隔たりを教えてくれることがある。
同じ指揮者、同じ演奏家のもとにあっても、二度と同じ演奏を聴
くことはできない。ヴァイオリンから、チェロから、ホルンから、
各楽器のつむぎ出す音は、瞬時に消えてゆく。
て重ねられた思いの数々が、ハーモニーとなって聴衆の心を揺さぶ
る。
にふける。演奏する側の心と聴く側の心が折り重なり、音楽の心が
生まれる。
名演が生まれる。クラシックの醍醐味はそんなところにある。
で過ぎたことを感じる。去年とも一昨年とも違う想いが、そこにあ
る。
ど、なに構うことなく時は過ぎてゆく。
まる三年の歳月が過ぎている。三年の月日は、人を変えるに十分す
ぎる。
さまざまな人のさまざまな思いをのせて、音が行く。
何かを失う。失ってはじめて、大切なものだったと気づくときもあ
る。
ひしがれるときもある。
傷つけまいとしながらも、どこかで傷つけ傷つけられ、それはいつ
からか思い出に変わる。思い出すのは不思議と、微笑みだけであり、
楽しかった日々ばかりだ。
るのかもしれない。
やあやまちが積み込まれている。「本当は・・・」のひとことを飲
み下し、音が流れる。
に正しいも悪いもない。あのときの選択が正しかったのだと、思う
しかない。出逢いも別れも、愛も憎しみもすべては自分が選んだ結
果なのだから・・・。
もっと明るく、もっと快活にスケルツォを響かせてほしい。ティ
ンパニが鳴り響く。悲痛なメロディを打ち破るマーチが、高だかに
奏でられる。
小澤が道化師になりきったようなタクトさばきを見せる。この楽章
が華やかであればあるほど、「悲愴」のモチーフはより生きてくる。
い。
短めのインターバルをおき、第4楽章が始まった。テンポを巡っ
て論争のある箇所である。自筆符にはアダージョ(ゆっくりと)と
記されているが、チャイコフスキー自身はアンダンテ(歩くような
速さで)と指示したことが、最近は判明している。
この日の小澤の選んだ出だしは、アンダンテに近いアダージョだっ
た。そして中間からは、アンダンテへと移行していった。
音楽がそう語ったように聴こえた。
(ドン山本)
上テキストは、「月刊LIVE STATION」10月号に掲載されたものです。
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